まめサヤ日記

おいしいアンコになる為にサヤの中で日々奮闘中

成長するって何だろう 3

私はひとりっ子、旦那は長男。いずれそれぞれの親と何らかの関わりを持たねばならぬと覚悟していたつもりだった。

 結婚して10年が過ぎた時、義父が突然逝ってしまった。義母はそれから6年近くひとりで暮らした。だがその間に病気は進行、認知症も発症、ひとりでは置いておけなくなった。息子の中学入学を機に半ば無理矢理東京へ連れて来た。

外面は良いが病院嫌いで外出嫌い。要介護2に認定され、家での入浴を何かと理由をつけて嫌がるようになったため、デイサービスのお世話になることにした。そして実家にいる頃から義母の体を蝕んでいた肺気腫が重症であることも発覚。在宅酸素療法となり常に鼻にカニューラを着け、家では機械に繋がれ外では酸素ボンベをお供に連れ歩く。ここでまた問題。外出嫌いはおそらく肺気腫による苦しさで歩くのもやっとだったところから来ていると思うのだが、酸素を吸入してももうほとんど歩けなくなってしまっていたのだ。家の中は何とか歩いてくれるが、外は車椅子でないと出てくれない。逆にこちらのペースで動けるのでいいのだが、車椅子の準備=外出とわかってしまうので行き渋りに悩まされる事になった。

悩まされる事は次々出てくる。認知症のせいだから仕方ないが、まずカニューラを外すこと、汚れた下着(その後リハビリパンツになるが)を脱いで隠すこと、そして夜寝ないこと。寝ないのは本当に困った。テレビ大好きで放っておくといつまででも観ている。リモコンを隠そうものなら夜中でも構わず人が変わったように怒りまくる。散々悩まされて最後はタイマー付きコンセントに助けられた。私のストレスがピークに達しショートステイを利用し始める。しかし認知症だけならたくさんある施設も、在宅酸素がプラスされると一気に数が減ってしまう。それでも定期的に行ける所が見つかり息抜き出来る時間も持てるようになった。

こんな事をしている間、義母はちょいちょい肺炎を起こし入院を繰り返していた。そしてその度に衰えて行った。6回目か7回目の入院の後、いつものショートステイ施設からは体調を理由に断られた。まぁその後はほぼ寝たきりになってしまったからショートステイは諦めたけどね。ただ息子の高校受験も控えて不安一杯だったけど捨てる神あれば拾う神有り、かかりつけのお医者様がレスパイト(家族の息抜き)入院を許可してくれて助かった!おかげで無事息子は高校生になったが義母はますます弱り、昼も夜もしょっちゅう苦しい苦しいと連呼。これには実の息子である旦那もまいってしまい、亡くなる2ヶ月前にギブアップ宣言して病院に入院させてもらった。

3年3ヶ月の介護生活、要介護4まであがり入院は実に9回。認知症サポーターの講座や介護家族の講座に行って頑張ろうとしたこともあった。私より大変な人はたくさんいるから私ももっと頑張らないとと思ったこともあった。でも結局それは私自身の首を絞め、ストレスに押し潰されそうになるだけだった。私が潰れたら家族が潰れる、義母の介護も出来なくなる、上を見たらキリが無い、私にはこれが精一杯。開き直ってかなり楽になった。そして周りの助けがたくさんあったから乗り切れた。丸一日休みをくれるデイサービス、まとまった息抜きのショートステイ、どんな時も話を聞いて寄り添ってくれる訪問看護さん、寝たきりになってからはオムツ替えのしかたやコツを教えてくれていつもニコニコのヘルパーさん、有無を言わさず手際良くお風呂に入れてくれる訪問入浴さん、全部段取りしてくれたケアマネさん、そして義母だけでなく私の事まで考えてくれたお医者様と優しい看護師さん。本当に感謝感謝。

でももしかするとこんなにみんなに助けてもらったのは、家族には文句言い放題なのに外から来る人にはありがとうしか言わない義母の外面の良さだったのかもしれないね。