まめサヤ日記

おいしいアンコになる為にサヤの中で日々奮闘中

父の死

1月29日午前0時13分、父が逝ってしまった。90歳。あと1ヶ月半で誕生日だった。

 

昨年11月8日、検査入院と言うことで病院へ。文句言いながら普通?の入院生活出来たのは2、3日。最初の検査で重度の嚥下障害と診断され、そこからは一切口から食べられなくなり点滴生活に。

治る見込みが無ければ延命しないと決めていた父。胃瘻も食事代わりの栄養点滴も拒否して3ヶ月弱。とうとう逝ってしまった。

 

父が入院して1ヶ月経とうとしていた頃、母から体調異変の電話。

脳梗塞。救急搬送。家から1時間ほどかかる病院。幸い左手に麻痺は残るものの、なんとか歩けて言葉も大丈夫。半月ほどでリハビリ専門病院へ転院出来た。最初の病院より少し近くなって40分くらいになった。

 

ただそこから2ヶ月、ダブルの見舞い生活。父は行けば文句ばかり。医師、看護師にもあれこれ言いがかりをつける。母は慣れない入院に一時混乱状態。被害妄想が酷かった。二人とも高齢ではあるが認知症とは無縁だった。入院生活恐るべし。見舞いの足も遠退くわ。週1が私の精一杯。母の病院へ行き、帰りに父の顔を見る。

そんな風に過ごすうち父はどんどん弱っていった。そりゃ最低限の点滴しかしてないからね。話していることも聞き取りにくい。わかったフリして頷くけどゴメン、何言ってるかわかんない。亡くなる1週間前に行った時、いつものようにわからない言葉に頷いて最後に息子の話を私がすると、(息子が)帰って来るから早く帰りなさいと言うのがわかった。

そして次の週、母の病院へ行き院内着の上に羽織る物が欲しいと言われ、隣駅で買い物をした。生憎の雨で買い物をした荷物もあり、家に近いバス停に停まるバスに乗れたのもあって父の所は明日にしようと帰った日。あと5分ほどで日付が変わる、そろそろ寝ようかとしていた時にケータイが鳴った。心拍が落ちてます、すぐ来られますか?慌てて着替え、息子を叩き起こし、旦那と三人土砂降りの中病院へ。病室にはすでに心臓の止まった父。電話のすぐ後に心拍は止まったようだ。まだ温かかった。圧倒的後悔。いつも通り病院に寄ればよかった。父の生きている最後の顔を見られなかった。そもそも検査入院なんてさせなきゃよかった。そうしたらもう少し、せめて91歳の誕生日まで生きていたかもしれない。母も父のいない不安に駆られず、脳梗塞なんか起こさなかったかも。

私が頭グチャグチャの中、旦那が淡々と手配をして2時間後には葬儀屋さんが迎えに来てくれた。一緒の車で病院のすぐそばの実家の脇に停車してくれて、家にお別れ出来た。そして私達を下ろして父は安置所へと運ばれて行った。

 

5日後葬儀を済ませ、お骨になった父は今私の家に居る。最近の写真が無く、20年近く前のものを遺影にした。たまたま実家で開いたアルバムにあった写真。70歳頃だろう父。まだ働いていて、ゴルフにもジャンジャン行って、朝は近所をジョギングしていた頃だ。真顔が多い中で珍しく口元が微笑んでいる。もしかすると車で母と出掛けた時のものかもしれない。一番穏やかに過ごしていた頃だろう。

最後に辛い思いをさせてしまった。向こうの世界で父はこの写真のように穏やかだろうか。